30日、天皇皇后両陛下は5日間のフィリピン訪問期間を終え日本に帰国される。
ニュース報道では概ね「天皇陛下フィリピン訪問を歓迎」というムード一色だった。
ただ、今回よく感じられたことは、日本のマスコミ報道と現地マスコミ報道の違い
報道されている視点が違うので、天皇陛下(日本寄り)で報道しているマスコミと
天皇陛下を日本から迎えたフィリピン側からの視点がある。
特に温度差を感じるのは
「第二次世界大戦」
日本軍がフィリピンで行った数々の行為の歴史に触れて
天皇陛下の訪問と合わせてニュースで報じる
「ポジティブニュースを先に流し、後でネガティブニュース」という編集だ
今回のフィリピン訪問で天皇陛下が宿泊されるホテルは
ソフィテル フィリピン プラザ マニラ Sofitel Philippine Plaza Manila
ホテル名を入力して検索⇒ TripAdvisor (トリップアドバイザー)
日本のマスコミは天皇陛下、皇室関連の悪いことは一切報道しない
全てが歓迎ムードで、多忙なスケジュールをこなしてフィリピン訪問している
現地のマスコミはマニラ市内で天皇陛下が到着されてデモ行進があったことを
報じている、アキノ大統領がアメリカと日本に迎合(げいごう)していると
かつてアメリカと日本がフィリピンで戦争を行い、大勢のフィリピン人が犠牲に
なったことを忘れているのか!という内容だ。
http://overseas.blogmura.com/philippine/ranking.html
南沙諸島をきっかけに、アメリカ軍がフィリピンに駐留するようになり
日本からは自衛隊が船舶など物資を供与するなど、戦争を体験した
年代のフィリピン人には、再びアメリカと日本がフィリピンを舞台に戦争
を始めるのではないか?あの悲惨な出来事を繰り返すのか?
そういっているようだ。
アメリカがヒロシマ、ナガサキ原爆、もう過去の戦争のことでしょ?
そう思っているのと、被害に遭った側はいつまで経っても忘れることが
できないというシチュエーションなのだろう。
この映像はバターン死の行進、こうして日本軍がマニラから撤退して
バターン半島に移動する際、アメリカ軍捕虜、フィリピン軍捕虜を
収容所へ移動するのに大勢の犠牲者が出た歴史で、いまでも
フィリピンの休日に指定されている。
バターン死の行進(バターンしのこうしん、タガログ語: Martsa ng Kamatayan sa Bataan、英語: Bataan Death March)とは、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・フィリピン軍の捕虜が、収容所に移動するときに多数死亡したことを言う。全長は120kmで、その半分は鉄道とトラックで運ばれ、残り42kmを3日間徒歩で移動した。
フィリピンでは、バターン半島が陥落した4月9日を、勇者の日 (タガログ語: Araw ng Kagitingan) として休日に定めている。
守備隊の降伏
1941年(昭和16年)12月23日、台湾から派遣されたフィリピン攻略の主力部隊である、本間雅晴中将率いる第十四軍が、ルソン島リンガエン湾に上陸した。フィリピン防衛の任に当たっていたのは、ダグラス・マッカーサー率いるアメリカ極東陸軍(米比軍)であった。マッカーサーは12月24日、マニラの無防備都市宣言を行った後マニラから撤退、バターン半島とコレヒドール要塞に立てこもった。日本軍は翌1942年1月2日に、マニラの無血占領に成功した。その後、日本軍はコレヒドール要塞を攻撃し、3月12日、マッカーサーはコレヒドール島を脱出した。
1942年(昭和17年)4月9日、日本軍はバターン半島を死者130名、負傷者6808名を出して占領した。降伏したエドワード・P・キング少将率いるバターン半島の米比軍は、約7万6千名もの多数が捕虜となった。これは、日本側の2万5千名との捕虜数予想を大きく上回るものであった。なお、コレヒドール要塞はその後も籠城戦を続けていた。
なお、米軍部隊は、日本軍に鹵獲されて使用されることを防ぐため、多くの武器やトラックを破壊した[要出典]。壊さなかった部隊は、死の行進を歩むことなく、それで収容所まで行った[要出典]。米軍兵士を輸送するには、米軍トラックしか方法が無かった[要出典]。当時、日本軍の保有するトラックは少なく、アメリカ軍兵士を運ぶすべは歩かせるしか無かった。また、日本兵よりも、捕虜となった米軍兵士の方が圧倒的に多かった
引用:wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%A1%8C%E9%80%B2
マニラ市内、日本軍が日の丸を担いでいる姿が見えるが
映像ではすぐにアメリカの国旗が出てくる。
アメリカ軍による大量無差別攻撃でマニラ市内が火の海になる
多くのフィリピン人が軍人、市民の区分けなく死んでいった。
それも日本軍がマニラにいたためにアメリカが攻撃したからと理由にされている。
コメント
コメント一覧 (2)
山下14方面軍司令官は、マニラを無防備都市宣言しようとしましたが海軍が反対、一部陸軍部隊と[マ海防]を組織し頑強に抵抗、米軍の無差別砲撃を誘引してしまいました。マニラ民間人の死者の大多数はこの砲撃によるものと言われてます
勝てば正義、負ければ悪、こういう戦争の歴史です。残念ながら戦争は法的裁きの無い大量殺人行為です。それにしても歴史にお詳しいので、コメントが勉強になります。