真田幸村の側室がフィリピンから日本へ
今年のNHK大河ドラマ 真田丸は高視聴率、久しぶりに面白いと思う。第39話で真田信繁(後の真田幸村)の側室、たかがルソン(フィリピン)から帰国して訪ねてくる。以前のストーリーで豊臣秀次が関白を辞する際に一族郎党処刑されるのを真田信繁が側室ということにしてルソンへ海外逃亡させた経緯がある。
たか=豊臣秀次の娘
たかは久しぶりの再会ですっかり南国フィリピン人のようになっていた、関白であった父・豊臣秀次が自害したのは1595年、大河ドラマでは大阪冬の陣(1614年)が始まる直前なので19年ぶりの再会であったことになる。
ルソン(Luzon)帰りのたかは、マガンダン ウマガとタガログ語を話す
信繁との再会がうれしく抱き着いて、マハルキタ!と言い
再びルソンに向かう旅立ちの前には、サラマッポと言う
信繁が聞き返して意味と尋ねると「ひみつ」と言い残し、意味深
たぶんドラマを観ている人は「サラマッポ=愛してる」って意味なのかな?と思わせるような印象だった。
タガログ語の意味
マガンダン ウマガ=おはようございます
マハルキタ=愛してる
サラマッポ=ありがとう 本当の発音はサラマット ポ
覚えておきたいタガログ語
NHK大河ドラマ 真田丸 第39話 「歳月」
真田信繁(堺雅人)は、春(松岡茉優)らとの九度山での暮らしを満喫していた。信之(大泉洋)にも、赦免嘆願はもう不要だと答える。ただ、父としては長男の大助(浦上晟周)をどのように育てるべきなのかに悩んでいた。一方、かつて信繁がルソンに逃がしたたか(岸井ゆきの)が、海外の珍しい紐(ひも)を持って訪ねてくる。信繁はその紐を見てあることを思いつく。そんなある夜、謎の人物が突然現れ、信繁を迎えに来たと告げる!
http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/story/story39.html
動画視聴は⇒ https://youtu.be/jy2E8O0KD1Y 動画像編集ソフト付![DellGraphic Pro]
ドラマでは秀次の娘の名前が「たか」となっており、信繁の側室になってルソンへ渡ったとなっているが、歴史上では隆清院(りゅうせいいん)となっている。たしかに信繁の側室は秀次の娘だったようだが、あまり詳しいことは残っていないようだ。
隆清院(りゅうせいいん、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての女性で、関白・豊臣秀次の娘であり、真田信繁の側室となった人物。子に御田姫(顕性院)、三好幸信がいる。名は不明である。
生涯
父は豊臣秀次、母は不明。
文禄4年(1595年)、父秀次は豊臣秀吉によって切腹に追い込まれ、秀次の側室・侍女34人と子4男1女は京都三条河原で斬首される。隆清院はこの処刑から逃れたが、なぜ逃れることができたかは不明であり、隆清院のその後の詳細も分かっていない。その後、九度山に蟄居している真田信繁の側室となったが、側室となった経緯は不明。慶長9年(1604年)に信繁の五女・なほ(顕性院)、三男・三好幸信を生んだ[1]。
大坂の陣では娘と秀次の母瑞龍院の許に身を寄せ、難を逃れた[1]。
出羽国亀田藩主、岩城氏関係の史料では法号を隆清院とされており、妙慶寺には隆清院の位牌がある[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%86%E6%B8%85%E9%99%A2
豊臣秀次 文禄4年7月15日(1595年8月20日)
豊臣秀吉 慶長3年8月18日(1598年9月18日)
大坂冬の陣 慶長19年10月2日(1614年11月3日)
大坂夏の陣 慶長20年3月15日(1615年4月12日)
徳川家康 元和2年4月17日(1616年6月1日)74歳没
江戸幕府 1603年3月24日(慶長8年2月12日)~1868年1月3日(慶応3年12月9日)
徳川家康は大阪冬の陣、大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼした1年後に他界しているんですね、もし大阪城が数年間持ちこたえてたら、先に徳川家康が死んで時代が変わってたかもしれません。
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コメント
コメント一覧 (2)
スペイン軍のマニラ入城は1571年6月。「たか」が無事マニラに到着出来た事に
しても出迎えたのはスペイン人のはず。タガログ語の古語がハッキリしないが言語学的に見てスペイン語の影響はかなりある。だとしたら、スペイン人ルソン島到着間もないころのタガログ語は今のタガログ語とはかなり違う筈だし、当時はルソン島では未だ部族間対立があったとなっては現代タガログ語を話していたとは信じがたい。
また、漂着した異邦人が原住民の中に入る訳が無い。港は重要施設であり当時はスペイン人居住区の直ぐそば。後の高山右近がそうであったように「たか」はスペイン人と遭遇したはず。だとしたら「たか」が出会ったのはスペイン語。百歩譲って漂着したしたのがリエンガエン湾だとしたら当時はそこでは違う現地語のはず。まぁ、適当な話しか作れないなら始めから「これは架空の物語です。」とテロップ入れとけよ。入れてたら御免。ワシ、犬HK見んもんで。
フィクションにそこまで文句言っても仕方ないのでは?
氏政と信繁の会談や出浦殿による家康暗殺未遂を筆頭に忠実ではありえない話がちらほら出てますし、そもそも架空の真田幸村ならともかく、忠実の真田信繁は関ケ原以前の半生はほとんど無名ですし。